エレンの自由とは?
[単行本22巻 表紙 より]
今日は3/30。
エレン・イェーガーの誕生日のようです。
エレン!お誕生日おめでとう!!
Twitterでめっちゃ早生まれなのがエレンっぽいって言ってる方がいて笑いました。
なので今日はエレンについて何か書こうと思います。
エレンという人格を象徴するキーワードは主に2つあって、それは
「自由」と「やさしさ」であると俺は考えています。
以前、当ブログでは「パラディ島のやさしい悪魔」https://shisyamosk.hatenablog.com/entry/2019/12/05/113510にて、その内の「やさしさ」について触れました。
だから今回は彼の「自由」について考えていこうと思います。
エレンの求める自由とはなんなのか?
エレンが自由を意識するときは多くの場合、その自由を妨げる敵が登場します。
幼少期、アルミンに影響を受けて壁の外を探検したいと思えば、それを妨げる巨人が敵であり…
誘拐されたミカサを助けたいと思えば、ミカサを攫った誘拐犯がそれを阻む敵、ということになります。
以前の「パラディ島のやさしい悪魔」https://shisyamosk.hatenablog.com/entry/2019/12/05/113510ではこの事件はエレンの自由とは無関係だと書きました。それはエレンの命が脅かされるわけではないという意味で書きましたが、エレンの
「他人から自由を奪われるくらいなら」
「オレはそいつから自由を奪う」
というセリフの他人から奪われる自由を「女の子を助けたいのに邪魔される」という意味だと受け取ると、確かにこの事件はエレンの自由と関係があることになります。
でもそれでは余りに自分勝手なので腑に落ちません。余りに自分勝手なのが正解かもしれませんけどね。
念願の海に辿り着いた際には、海の向こうにいるエルディア人を虐げる敵を意識しています。
たしか作者がなにかの取材で、アルミンは好奇心から海を見たいと思っているのに対してエレンは海を見ることによる自由を求めていて海である必要はない。そう答えていました。
実際に作中でもエレンは単行本4巻、第14話にて
「炎の水でも氷の大地でも何でもいい」
「それを見た者は」
「この世で一番の自由を手に入れたものだ」
ってはっきり言ってます。
確かにエレンは海に辿り着いたけど、その更に向こうに自由を妨げる敵がいると知ってしまったら、それじゃあ自由を手に入れたことにはなりません。
きっとエレンは海の向こうにある、更に巨大な見えない壁を感じたのではないでしょうか。
これまでを振り返るとエレンの求める自由とは、壁の外を探検したい…女の子を助けたいと望んだとき、それを妨げる敵がいない状態を指すような気がします。
つまりエレンの自由とは、それを説明するときに自由を妨げる敵の存在を必要とします。
そういう意味で、とてもネガティブな定義です。
「自由を妨げる敵」というマイナスの存在が
「いない」というマイナスの状態を掛けてプラスにしているような。
では、ポジティブな意味での自由とはなんでしょう?
他作品で恐縮ですが『映像研には手を出すな!』という漫画があります。
女子高生が同好会活動でアニメを制作する話です。その中のアニメーターの浅草みどりは
「やりたいことを、やりたいようにやるのだ!!」
と言ってます。彼女たちは己のやりたいことを思う存分打ち込んでいます。自由を謳歌しています。
これが俺が想像する自由に限りなく近い気がします。最終的にエレンはこんな状態を望んでいる、のかもしれない。
しかし、エレンの自由がネガティブな定義になるのは無理もないです。生まれてから今日までずっとずっーーと己の自由を妨げる敵が存在し続けているのだから。だからまずはその敵を滅ぼさなくてはいけない。エレンの物語は終始そんな戦いに追われています。
自由を謳歌するという意味では、エレンはまだスタート地点に立ててすらいません。
エレンの自由について考えていると、エレンの父グリシャ・イェーガーのことを思い出します。
グリシャは妹に飛行船を見せたくて収容区を無許可で外出しました。
「どうして…ダメなんだ…」
「飛行船が見たかった…だけなのに」
と言ってます。
なぜ妹が殺されたか、なぜダメかと言えば普通に外出が無許可だったからだと思います。
でも情勢的に外出許可なんて滅多に降りないだろうとは察せますが。そのルールを軽んじたのはまだ子どもだったから。
でも、外出に許可がいるような社会がそもそもおかしい。これは「自分の望むものを妨げる敵がいない状態を理想とする」という価値観を持つエレンも同意するはずです。
歴史的な事情についても古代エルディアの行いを悪とするなら、今マーレがやってることは古代エルディアのそのまんまじゃないかと思ってるので、マーレのエルディアを虐げる大義名分が成立してるとは思えません。
「いじめは良くないと言ってるいじめっ子が過去のいじめっ子をいじめてる」みたいな状況なので。
ウォール・マリア陥落時、グリシャはレイス家の隠れ家へ赴き始祖の巨人を奪うべくレイス家の虐殺します。しかしその途中で決意が揺らいだときは、その場面の記憶を覗いていたエレンが進撃の巨人の未来の記憶を見せる能力を応用してグリシャに発破をかけます。
犬に食われた妹に報いるために進み続けろと。
ここのエレンは迫力がすごくてこわいですけど、言葉を変えればグリシャがあの日、妹を連れて壁の外に出たことを肯定してあげてるんです。
壁の外を夢見たこと自体は絶対に悪いことじゃない。
エレンは子どもの頃のグリシャの味方になってるんです。
壁の外を夢見て、実際にウォール・マリアを奪還してパラディ島を無垢の巨人の檻から解放したエレンだからこそ子どもの頃のグリシャの味方になることができます。
エレンに過去の自分の行いを肯定してもらうことでグリシャはちょっとだけ救われているんじゃないでしょうか?
俺だって、過去の自分の選択は間違ってなんかないと信頼する者に言われたら嬉しいですもん。
[121話 未来の記憶 より]
そして脱線しますが、グリシャがレイス家虐殺を決意して巨人化する際、メスで掌に傷を入れているんですが、その横に妹フェイを連れてるコマが挟まってます。その時、フェイの手を握っているのは右手であり、巨人化する時に傷を入れる掌も右手です。
グリシャはあの日フェイの手を握った右手に真っ正面から向き合って巨人化しているのです。フェイのコマがあるのは、巨人化の瞬間にフェイのことを思い出したからです。
超名シーンですね。
最後にメタ的な視点になるのですが、作者はエレンのことを「ストーリーの奴隷」だと言ってます。
奴隷であることが許せないエレンが、彼の世界の創造主たる作者に奴隷呼ばわりされるのはなんとも悪い冗談ですが、もしそうであるならばマンガとしての進撃の巨人のストーリーが完結することで初めてエレンは「ストーリーの奴隷」から解放されて、真の意味での自由を手にするのかなと思いました。
ストーリーの完結そのものが主人公にとっての祝福であるという構図はなかなかイカしてますね。
エレン、誕生日おめでとう!
かっこいいぜその生き様!
長文お疲れ様でした。