逃げない奴隷と見えない鎖
先日、「始祖ユミルの舌は無事か?」という記事を投稿しました。
エルディア族が捕らえた奴隷の舌を切り取るシーンがあるので奴隷である始祖ユミルも同様に舌を切られているのではないか?という内容です。
予想以上にこの記事の反応が大きく、とても嬉しく思います。
そのコメントの中に以下のような疑問が寄せられていたので、今回はこの疑問について考えていきます。
・劣悪な環境下にも関わらず、なぜ奴隷は逃げないのか?
・逃げられないようにしておくのなら、鎖で繋いでおいた方がいいのではないのか?
まず、一つ目。
なぜ奴隷は逃げないのか?
強制労働で酷使され、舌を切られ、目玉をくり抜くと脅されて尚、奴隷はエルディア族の村を抜け出して逃げようとはしません。
この態度に疑問を持たれた方がいたようです。
正直、俺は何も疑問に感じません。
彼らは逃げたくても逃げられないのです。
その理由の一つが
「引き返せない楔」という考え方です。
これは俺たちの社会の変化、そして心の有様を表したもので、俺たちは現在よりひとつ前時代の暮らしに戻ることはできない、というものです。
俺はこの考え方を「ぼくたちの洗脳社会」著・岡田斗司夫 という本で学びました。
Webで全編無料公開されているので興味があれば是非一読ください。
以下、そのリンクです。
http://blog.freeex.jp/archives/cat_10026140.html
「こんな村、こっそり抜け出しちゃおっか?」
とかなんとか言って、仮にエルディア族から逃げたとしても彼ら奴隷にはどんな生活が待っているでしょうか?
財産を何一つ持たない彼らはその身一つで森の中に投げ出されます。
彼らに森の中で生きていく術は無い、と断言できます。
なぜなら彼らは農耕民族だからです。
農耕民族とは山や森での狩猟採集によるその日暮らしの生活を捨てて農業に専念することを選んだ人々です。
農業生活にシフトする際に、世代を経る度に狩猟採集時代の知恵…どの季節にどんな食糧があるか、危険な猛獣の種類とその縄張り、毒キノコの種類といった知識が失われていきます。
そんな状態で山や森で暮らしていくことは不可能です。
ではなぜ、彼らが農耕民族だとわかるのか。
それはエルディア族といった豪族が存在するからです。
豪族とは農耕技術とセットで登場します。
農業によって人々の主食が木の実や果物から小麦、稲といった穀物にシフトした結果、これらの穀物は長期保存に向いていたため食糧を貯蓄する文化が自然と発生します。
そして貯蓄している大量の食糧を他民族から奪ったりする集団が現れます。それが豪族です。
つまり、狩猟採集民族がその日暮らしの財産を持たない狩猟採集民族を襲っても意味がないのです。
故にエルディア族は農業技術が確立されていないと存在が成立しません。
同様に奴隷という立場も、仕事は主に農業なので農業の確立により発生したものです。
つまり、始祖ユミルがなぜあのような仕打ちを受けるのかと言えば、人類が小麦や稲に取り憑かれてしまったから、とも言えます。
そして冒頭で触れた「引き返せない楔」という概念。
農民生活が染みついた者が一時代前の狩猟採集民族として生きていくということがいかに難しいか。
いかにやりたがらないか。
それは現代人の我々に置き換えると実感できます。
果たして俺たちは、慣れ親しんだインターネットサービスや数々の娯楽産業、ITサービスを全てかなぐり捨てて、「裸足のゲン」や「この世界の片隅に」で見たような軍国主義、またはファシズムの世の中を生きていけるのか。また、そのような生き方を社会の流れが選択するのか。
少なくとも俺は無理です。
だって進撃の巨人の続きが気になるから。
そういった前時代の生活に戻ることのしんどさが彼らが奴隷から抜け出して逃げる事への精神的なブレーキになると考えています。
逃げ出すよりかは、始祖ユミルの時のように奴隷の中でも立場の弱い者を犠牲にして何とかやり過ごす方が奴隷にとっての賢い生き方なのです。
また具体的な要因としてエルディア族を抜け出したとしても逃げた先の森や山は違う豪族の領地である可能性が高いです。
逃げた先で違う豪族に捕まってしまっては元の子もありません。
豪族Aの奴隷から豪族Bの奴隷になるのがオチです。
でも実際の奴隷は「引き返せない楔」がどうのとかは考えないでしょう。
しかし、それでも彼らは奴隷として生きていくことしか知りません。主人に仕えて働いてご飯をもらう以外の生き方が分からないのです。
これを122話はとても顕著に表現していると思います。
始祖ユミルは村を追われた先の森で始祖の巨人の力に目覚めます。これまでの鬱屈した雰囲気から一転、見開きでズバーンと始祖の巨人が開放され、これから始祖ユミルの反撃が始まるのだ!と思いました。
[122話 二千年前の君から より]
しかし次のページを開くと時間が飛び、やっぱり始祖ユミルはエルディア族に跪いて、エルディア族のために働いています。
[122話 二千年前の君から より]
この展開に肩透かしを喰らい、いや働くんかい!と読みながらツッコんだものです。
これが奴隷なのです。
人智を超える力を手にしても尚、開放されないのが奴隷の性分なのです。
また、122話の始祖ユミルの回想ではセリフがほとんどありません。
あるのはエルディア族長の言葉だけです。
この演出には本当に鳥肌が立ちました。
なぜなら、これが奴隷から見た世界だからです。
奴隷の中には主人の命令しか存在しません。
それを見事に演出し、読者の俺たちも奴隷から見た世界を仮想体験したのです。
一人で生きていく能力の無さと主人に仕える以外頭にない想像力の無さ、この二つの要因が奴隷を奴隷たらしめるものです。
奴隷を縛る「見えない鎖」なのです。
本記事のタイトルの見えない鎖とは、こういうことです。
そして二つ目の疑問。
・逃げられないようにしておくのなら、鎖で繋いでおいた方がいいのではないのか?
一応これまでに説明した「見えない鎖」が奴隷が逃げられない理由なのですが、ひとつ気になったのが、「鎖」。
鎖は鉄製です。
当時のエルディア族の製鉄技術がどれほどのものか疑問でした。
奴隷に鉄製の鎖はもったいないです。
でもこれは問題の本質ではなく、材質は何でもいいです。
縄とかでいいです。
よく見ると122話の冒頭で捕らえられている人たちは鎖ではなく縄で縛られています。
[122話 二千年前の君から]
縄で縛っておかない理由は、そんなことしなくても逃げられない理由がたくさんあるからと、あとは普通に労働に差し支えるからでしょう。
ここからは脱線して、エルディア族に製鉄技術があるのかどうか考えてみます。
始祖ユミルが生きた時代が実際の世界史のどの辺りに相当するのかは判断が難しいです。
ヒントになるのは敵国のマーレです。
回想シーンをよく見てみるとマーレは歩兵に至るまで兵士全員が鉄製の装備で覆われています。
[122話 二千年前の君から より]
これはつまり、マーレには当時すでに鉄器を量産するだけの製鉄技術が確立されていることを意味しています。
現在分かっている中で世界で最速で製鉄技術を確立したのは紀元前15世紀頃のヒッタイト帝国です。
ヒッタイトは他の民族が青銅器しか作れなかった時代に、高度な製鉄技術によりメソポタミアを征服しました。
マーレの状況はヒッタイトに似ています。
マーレは既に強大な帝国でしたが、これはいち早く製鉄技術を身につけたから周辺の青銅器文化圏を支配していくことができた、というのが俺の考察です。よく見ると始祖ユミルが暴れる前のエルディア族は誰も鉄製の装備を身につけていません。あって装飾くらいです。
[122話 二千年前の君から より]
ですので、始祖ユミルが生きた時代の状況は史実では古くても紀元前15世紀辺りだと言えます。
エルディア族もいずれマーレに支配される運命にある青銅器文化圏の一部に過ぎませんでしたが、始祖ユミルの巨人の力という「ズル」で逆にマーレを打ち負かし、マーレの製鉄技術をそのまま吸収していった、というのが始祖ユミル以降のエルディア族のサクセスストーリーだと考えています。
最後にこれは漫画の世界の物語ですが、これに史実を織り交ぜて考察したり、読んだ本や調べたものの知識が、進撃の巨人の世界観をより豊かにその輪郭を形づけることが出来てとても楽しかったです。
今回の古代エルディアの世界観の考察は一応自分の中では矛盾なく無理なく語れたかなと思います。もし至らぬ点やよく分からない点、もっと言えることがあれば、是非教えてください。見かけ次第反応します。コメント欄を豊かにして、より進撃の巨人を一緒に味わいましょう。
長文お疲れ様でした。